お母さん、ありがとう -「緩和ケア」を全てのがん患者と家族に-

2008年02月27日(水)

リレーコラム6人目はNHKがんサポートキャンペーンホームページに”まりちゃん”のニックネームで100通近い投稿をしてくださった、公文まりあさんです。
ご自身の体験から、全てのがん患者とその家族に緩和ケアが必要であると訴えます。

私の母は、平成16年9月に末期膵臓がんと診断され、翌年2月に亡くなりました。
「NHKがんサポートキャンペーン」は、12月24日の朝、第一回目が放送されているのを偶然見ました。母の望みで「いつもの年と同じように」と託された年賀状づくりのため自宅にいたのです。その日は、一般病棟から緩和ケア病棟へ移ることを希望し、ただちに決定した日でもあり、このキャンペーンとこういう形で再会できたのは、母からの贈り物、不思議なご縁を感じます。

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似ていますか?私(左)と母(右)です。

母と私は「一卵性親子」と言われ、母亡き今、母の友人・知己は、私を「生き写し」「ああ、びっくりした、お母さんかと思った」と言うほど。そんな私たちなので、あの時も「緩和ケア病棟=治療を断念=死」ではなく
「あそこ行ってみる?」
「それ言おうと思ってた。お母さん、行きたいな」
「体調整えよう」
「うん、死ぬからじゃないよ」
「そうよ。あそこだったら、まりちゃんもずっと寝泊まりできて楽しいよね」・・・あそこ、で通じるところ、それが緩和ケア病棟でした。

ケア病棟に移ります、と、一般病棟でご一緒だった患者さんやご家族に私が告げたとき、皆さん声を詰まらせ涙を浮かべておられました。でも、移って行くカートの上の母と隣に付きそう私は笑っていました。一般病棟の方々に「あの子は寂しがりや。夜、一人で家に帰って大丈夫かしら」と言っていたという母(注:私は幼稚園児ではなくて、当時すでに40過ぎでした!)。これから一緒に「暮らせる」という思いが母を笑顔にしていたのか、それとも達観した笑みだったのか。私は、皆さんに手を振る母が笑っていたから、私も笑わなければ、と同じように手を振りました。

ケア病棟に移るとすぐに、私は、家から布団、身の回りのもの、母が得意だった刺繍の作品など、それはそれはたくさんのものを持ち込み、母とともに暮らし始めました。
病院は家から10分。一日一度、新聞や郵便物を取り、留守番電話チェック、洗濯。往復も入れて正味一時間ほどが、母と私が離れている時間でした。

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母の刺繍作品のうちの掛け軸ひとつ。おひな様です。2月に亡くなったのですが1月からずっと飾っていました。ケア病棟の病室中、母の刺繍作品であふれ、多くの先生方、看護師さんがみにきてくださいました。

一般病棟や自宅では食事がとれず、無理して食べても戻していました。ところが、ケア病棟に移り食欲を取り戻しました。チョコレートを食べ過ぎて、母も私も、体中真っ赤になり(二人の共通体質です)、お医者様が母の体を見て、大騒ぎになりました。母と私が「いや、これはチョコの食べ過ぎ」「母だけでなく私もかゆいし、赤いです。だから大丈夫」と言っても、薬の副作用か容態の悪化ではと、大変ご心配おかけしてしまいました。母はぺろりと舌を出して・・・。楽しい思い出です。

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母と初めて、そして最後になった海外旅行(平成4年)。シンガポールのラッフルズホテルバーで。本家本元「シンガポールスリング」を飲んでごきげんな母娘です。

消化障害があるので、お肉はよく噛んで味わっていいが、飲み込まないようにと言われていました。ある日大好きだったお店のローストビーフサラダを食べたがったので、買ってきたところ「美味しい」と言ってそのまま飲み込んでしまったのです。今度は、私が真っ青になり、お医者様のところにすっ飛んでいきました。
「飲み込んだんですっ!」叫ぶ私に、先生は穏やかに言いました。
「何か急変があったら、全力で対処します。けれど、お母さん、美味しそうにお肉食べられたんですよね。お嬢さんと一緒に食べて楽しかったんですよね。もし、これで何かあっても、幸せだったと思いませんか・・・」
はっとしました。
「そうですね・・・。では、私は、しっかりみています。」
「はい、こちらも、特に気をつけておきます、お嬢さん、あまり心配しないでね、あなたが穏やかでいてあげて」
そして、本当に、看護師さんがよく見守りに来てくださいました。幸い、母は様態を悪化させることなく、お肉を美味しく食べた喜びで、気持ちよく朝まで眠っていました。お肉を食べたいという小さな望みですが、こんなことが叶う場所、それが緩和ケア病棟でした。思い出やエピソードは限りなくあります。今でも、涙ぐむようなことも・・・。

川崎市に住んでいる弟が来た日は、それまでで一番嬉しそうでした。ずっとついていた私は何だよ?って、ナースステーションに愚痴を言いに行ったほど!「母と息子はそんなものです」と諭され?ました。すでに母の意識は朦朧としていましたが、弟が叔父と私に話す昔話に、静かに涙を流していました。帰る弟が手を握ると、さらに滝のように涙が流れるのが見えました・・・。う?ん、弟には完敗!?です。でもこれも素晴らしい思い出。

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母が緩和ケア病棟で、お茶目している姿を携帯電話で撮った写真です。

髪を飾るぽんぽんは私の同僚のおだみっちゃんからのプレゼント。母はかわいい女子高生のつもりで、先生に見せるのを楽しみにしていました。
おだみっちゃんは、人事、厚生関係の仕事を担当していて、私が休暇をとるとき、いろいろと手続きをしてくれました。たくさんの人に支えられて、母と私の時間が作られていたのです。

こうして、母は一ヶ月あまりを過ごし、2月2日、小雪がちらつく中、穏やかに逝きました。数日前から雪模様で、「雪よ、おかあさん」というと、「ちょっと見たいな」というので、看護師さん数人がかりでベッドを動かして。でも、もうあまりよく見えなかったようです・・・。

いよいよというときに、師長さんが私に温かいお茶を持ってきてくださったことは今も忘れられません。「最期まで声をかけて、聞こえているから」と言われ「お母さん、ありがとう、大好き」と言い続けました。お医者様、看護師さん数人に見守られるなか、息を引き取ったのですが、あまりの穏やかさに「死んだのですか?」とお医者様にお尋ねしたほどです。

私たち(あえて、私たち)がいた緩和ケア病棟は「穏やかなときをあなたらしく」という言葉を掲げています。でも、私たちのいた緩和ケア病棟は、患者さんはもちろんですが、家族にも「あなたらしい」ときをくれる場所。これからのケア病棟は、日本全国ぜひそうであってほしい。現在、がんにかかった全ての人が、緩和ケア医療を受け、病棟で過ごすことは実現できていません。痛みと苦しみを緩和することは、絶対に必要と経験から思います。また今、在宅での緩和ケア医療を望む人も増えています。患者と家族の希望や事情はさまざま。一人一人に寄り添う緩和ケアを心から望みます。
そして、緩和ケア医療・病棟は、患者と家族に希望を与えるものであってほしい。
「もうダメな人」が受けるもの、いくところというイメージを変えたい。
私の母は確かに亡くなってしまった。だから、やっぱりもうダメだったんじゃないか、と言われるかもしれない。
でも、違うんだ、ってことを伝えたい。
生きていて、「もうダメ」ということは絶対にない。
死んでも、「もうダメ」なんじゃない。
そのことを、私は緩和ケア病棟で教えてもらいました。

私は母の死後、ボランティアとして、その緩和ケア病棟に関わる機会を得ました。痛みをコントロールし、体調を整え退院、通院治療に変わった方もいらっしゃいました。お若い方でしたので、ご両親の喜ぶ姿が今でも目に浮かびます。治療の手だてがないからではなく、治るためにも、どんな病状・段階でも患者と家族が「らしく」過ごすため、緩和ケア医療の早急な推進と普及を、素晴らしい時をともに過ごした二人のうちの一人として、心から望んでいます。もう一人・・・母も天国から言っています、「楽しかったね、まりちゃん」と。あの大好きな笑顔で、きっと。

私が今、元気で生きていられるのは、最期のときを、一緒にあの場所で過ごせたからだと、心からそう思います。遺る私のためにあの場所を選んでくれたんだね、お母さん。本当にありがとう。

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大好きな写真。わたしの七五三、わたしは三歳まえです。

プロフィール
公文 まりあさん
昭和37年生まれ。団体職員。
平成16年9月、二人暮らしの母が突然、膵臓がん余命三ヶ月と宣告される。10月?翌2月まで介護休暇をとり、一般病棟→自宅療養(2週間)→再入院一般病棟→緩和ケア病棟と、5ヶ月間、母と濃密な時間を過ごす。

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