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渋谷義久さん

家族総出

渋谷義久さん(60)
徳島実行委員長

「郷里の浜松では、不良一歩手前の悪ガキだった」と本人は照れくさそうに言う。体の強さと負けん気はちょっとしたもの、気合を入れて将来を夢見たのはおしゃれで高級なイメージがあるフランス料理の調理人だった。

リレー・フォー・ライフ徳島の会場では毎回、渋谷一家が動きまわる。妻喜代美、長男幸多郎、長女明日輝、次女あかね、それぞれの家族もいて机を運び受付をする。多くの実行委員にまじり、そんな光景がいつもある。

会場のにぎわいを気にしながら渋谷はこういったことがある。「ワイは死ぬこと自体は受け止めていた。56歳でがんだと告げられたとき、家族が一瞬まさかいう感じの表情をした、あの顔が忘れられない」。自分は諦めがついても妻子を守りたいという気持ちが家族との絆を強めている。リレー開催で大勢に増えた仲間はとても大切だが、人生のいろいろな出来事を一緒に乗り越えてきた家族への思いは別な意味で強い。

「経補要員」として調理の基礎を3年学び、いつか外国航路世界を巡りながらフランス料理をつくるステップにしよう、と海上自衛隊に入ったのは青春の夢を追うためだった。荒波にもまれて陸に戻っても体が揺れる「陸酔い」はごめん、やはり調
理一筋がよい。見習いの舞鶴をへて徳島へ。和田島航空隊は実施部隊だ。緊張を強いられる。それでも、豪華客船の乗員は月一度ある船上パーティーに備えダンスを習う必要がある。仲間と教室に通った。

がらっと生き方を変え、料理から水道工事の世界に入るのは、妻との出会いが大きい。一念発起して道を変え、配管技能士などの国家資格をとって小松島市でひとり立ちした。安くて、丁寧で、仕事の速さがモットーだが、思い通りにはゆかない。「お願いに行って行って行きまくりやった」。やりがいのある改装の仕事が来るまで7年、人脈をつくりながらさらに年数を重ね、とにかくがんがん動き回るのが身上で、働き盛りを過ごす。

2007年夏。春先からつづく腰痛は我慢の限界にきていた。大して食べていないのに腹がはり、胃をとりまく圧迫感。寝返りのたびに激痛が走り、宙をつかまんばかりの指が握れない。そのもどかしさ。胃とすい臓に何かできとるわい、と診断する町中の医師もいておそらくがんだなと思ったのは、小学校2年の自分を残し去った父親がそうだったこともある。

大きな病院の血液科の最終診断は悪性リンパ腫。抗がん剤治療をするために28日間入院し、その後8回にわたる通院治療の間に救急外来に23回駆け込み、担ぎ込まれる。血圧急上昇、心臓発作を繰り返し、「このうち3回は確実にワイの命日になるやろなと意識が薄れるときに思っていた」と言う。副作用の猛襲開始だった。発熱、吐き気、だるさを考えれば、あと半年耐えられるかどうかと感じていた。「それなら、どうしたら自分らしく時間を使えるか」と、がまんの合間に考えた。

新聞を開くと、これだっと感じた。記事は、兵庫県芦屋市で国内で初めて開くリレー・フォー・ライフに行こうと仲間を募っている。色々悩みを話し合いたいと、通院治療の合間に仲間を探してきたが、徳島では難しかった。芦屋行きは直前に体調が悪くなり実現しなかった。だが、しばらくして、闘病に苦しみながら芦屋をめざす坂下千瑞子=元大分実行委員長=の懸命な姿をテレビで見た。「すげーなあ、この人。芦屋へ行けんかった悔しさから、そんならここでやったろうと思ったんですわ」。パソコンが苦手だが、ネットカフェに駆け込みリレー・フォー・ライフの資料を探してもらった。あの副作用を知る周囲は、そんなに無理をしなくても、と乗り気ではない。家族も口々に反対した。

翌年から3回の開催を終えたいま、渋谷には悩みがある。企画、チームづくり、運営資金の使い方は人それぞれ意見がある。寄り集まる人々はみんな思いを込めて実現をめざす。さて、自分の考えと違うときの調整をどうしよう。みんなで寄り添う会場づくりをどうしたら実現できるか、とストレスがある。実行委員の自分や仲間たちが勇気を出すことで、誰かが勇気を得てくれるにちがいない。丁寧に語り合っていこう。

「自分ががんだということを知られたくない人がまだ多い土地だからこそ、患者が仲良くせにゃ。リレー・フォー・ライフは集まる場にしたい。一人づつの草の根、そして一人一人とひざを突き合わせて語っていく」という。自分らしい決意表明を、仲間も家族もきちんと受け止めてくれるに違いないと願っている。

(敬称略)