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思っていても行動に移さないと何も変わらない

2013年11月27日(水)

2013年、大阪ではその前年にも行われた貝塚市の会場に加え、大阪市・大手前高等学校でもリレー・フォー・ライフ・ジャパンが開催されました。開催実現へと実を結んだエピソードをご紹介します。

―リレー・フォー・ライフ・ジャパン2013大阪大手前代表・久保田鈴之介さん(代行 父 久保田一男さん)からのメッセージ―

「今週末、貝塚へ連れて行ってくれる?」息子の久保田鈴之介(以後、鈴)からの急なお願い。
鈴は1年前の2012年9月頃、ユーイング肉腫の再再発で大阪市立総合医療センターすみれ棟に入院中だった。以前効果のあった薬が効かなくなり、全身に転移、背骨がユーイング肉腫に侵され、背骨の圧迫骨折に続いて、神経も侵され始めた頃だった。身体中痛くて、ずいぶん辛かっただろう・・・。
「貝塚へ?」って聞くと「リレー・フォー・ライフに参加したいから!」という答え。
私も女房も「リレー・フォー・ライフ」が何のことかわからない。話を聞くとがん患者を支援するイベントがあるという理解だけだった。
さて担当医に薬で体調を調整してもらって、病院から外出して大阪貝塚会場に行った。色々な人から温かく迎えられた。病院からインターネットで多くの方とつながっていたらしい。サバイバー(がん経験者)テントでフラッグに手形を捺した後、がん専門医の高橋先生や井上先生と一緒にパネルディスカッションでステージ上に登壇し、私たち両親を驚かせた。
長時間の外出が出来ない身体だった。貝塚からの帰り道、「貝塚は遠かったなぁ、大阪の真ん中でやってくれればたくさんの仲間が参加できる・・・」と言いながら戻った。
『思っていても行動に移さないと何も変わらない』という言葉は鈴の口癖だった。
鈴は早々に動く。「来年度は大阪城の真ん前、自分が通っている府立大手前高校でやりたい!」と申し出た。みんな「いいね!」と言いながら最初はだれも本気ではなかった。1ヶ月が経過して「大手前の件はどうなりましたか?」と鈴が訊ねたことで、「本気やったんやぁ!」とようやくみんなが本腰を入れ出した。それから学校、教育委員会と交渉を重ねた。
1月になって今年1回限りで実施の許可が出そうだと聞いたが、正式に決まったのは鈴の葬儀の四日後だった。
鈴よ、天国で聞けたかなぁ・・・。
鈴が亡くなり、その遺志を継いだメンバーで大手前でのチャリティー・イベントの準備が本格的に始まった。大手前代表に久保田鈴之介(代行 一男)と西内重弘さんが決まった。

公立高校での実施は全国でも初めてらしい。若人のアイデア、活動も多く入った文化祭の雰囲気で仕上がっていく。大手前高校の生徒だけでなく、自治会、生徒会を通じて他の学校の高校生達もボランティア参加し、会場準備では素早くテントなど設営された。
2013年10月12日正午に開会式が始まり、サバイバーである歌手、木山裕策さんも大手前卒業生としてステージ参加、司会のアシスタントも務めていただいた。 
ルミナリエ・エンプティーテーブルセレモニーでは、高校生達の語りと中学生サバイバーのピアノ演奏など、これも手作りでとてもよかった。

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大阪城の紫ライティングアップの模様。
紫は、リレー・フォー・ライフを象徴する色。

夕闇の中、大阪城がこの日限りで紫色にライティングアップされた。会場の大手前高校から外へ出ると目の前に紫色に染まった大阪城がすぐそこに見える。グラウンドでウォーク中の方にも見てもらいたいとインターネット遠隔授業の技術を用いてブースのスクリーンに大阪城を映し出した。増田大阪委員長と鈴之介が生前に約束したひとつのイベントであり、紆余曲折したが実行にたどり着けてほっとしている。リレー・フォー・ライフ募金から紫化の資金は出せない、と言われたのは7月を回ってから。ここから大阪城紫化チームを結成、資金集めにチラシを作成し、周辺ホテル・店舗へのお願い、世間へPR活動、知人、鈴之介の先輩を頼って募金のお願いなどに奔走した苦労は忘れられない。
夜のステージではサバイバーの河内家菊水丸さんがご自分のがん経験のトークショー、また手拍子で河内音頭を唄っていただき、大阪らしいイベントとなった。それ以外の著名な方も含め、多くの方の熱いステージが、休む間もなく次から次へと繰り広げられ、視聴覚教室での医療講演も充実していた。
開会式や紫化大阪城を映したNHKテレビ放送が当日の夜にあり、「テレビ見たよ」と、夜中に続々と駆けつけてくれた方もとても多かった。学校の食堂には24時間オープンで頑張ってもらい、大人のみなさんにとっては学生時代の懐かしい学食気分を味わっていただいた。

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大手前グラウンドでのルミナリエ・エンプティーテーブル。

夜越えをして迎えた朝方の空が、リレー・フォー・ライフのテーマカラーでもある「夜明けの紫」(DAWN PURPLEと呼ばれている)に染まり、がん患者に希望の光を与え、また新たな1日の歩みを予感させた。そして感動のファイナルラップ。閉会式、片付け、後処理を行って終了することができた。参加していただいた方は笑顔で元気とやさしさをみやげに帰られた方が多かったと思う。
鈴よ、見ててくれたかい・・・。
チーム参加のブース催し、ウォーク、協賛、店舗募金箱、グッズ、設営、片付け、印刷、学校、運搬、機材貸出、実行委員、ボランティア他、会場には来られなかったけれども色々な形でご尽力、協力、支援、応援いただいたみなさんへ心から熱く、厚く御礼申し上げます。
みなさん、本当にありがとうございました!
!(^^)!

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閉会式で鈴之介の写真を掲げた両親。

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プロフィール
久保田鈴之介
1994年9月25日~2013年1月30日 没年齢18歳。
中学2年生の時、ユーイング肉腫を発症。中学3年で寛解したが高校2年で再発、その後高校3年で再再発。4年半闘った。
高2の冬、2012年1月末に大量化学療法を終え、寛解を迎える時、自分よりも困っている仲間の為にと、病院の院内学級制度がない高校生のための難病支援を大阪市(当時橋下市長)へメールで訴えた。その行動が実り、翌2012年の4月から、大阪府の公立高校の生徒で登校できない患者へ非常勤講師を派遣する学習支援が制度化された。当時「K君のこと」で話題になる。そして2013年1月30日に18歳で逝ってしまった後も、今度は大阪府に続いて大阪市の公立高校でも講師派遣が制度化された。
また生存中に学校側から「出来ない、出来ない」と言われていたインターネット遠隔授業も、鈴之介の友達が教室にタブレットをセットしてネット中継するという支援(実力行使)によって病院に居ながら鈴之介は授業を受けることが出来ていた。これをきっかけに、鈴之介が亡くなった後の2013年度から大阪府、大阪市の公立高校でインターネットを使った本格的な遠隔授業が制度化された。
もっとも鈴之介は生存中、これらの制度で満足する訳ではなかった。何故なら、困っている学生患者は大阪の高校生だけではなかったし、元々訴えていたのは病院内で病気と闘っている仲間みんなが顔を合わせて悩みを話し合うことができ、共に学習でき、心の拠り所ともなるような、病院内における高校生患者のための院内学級設置だったから。加えて、小中学生に対する病院の院内学級制度を整備することも訴えた。国へ向かって上記の問題と難病患者への医療費支援の手紙を書き、亡くなった後だが2013年4月12日の衆議院予算委員会で鈴之介の手紙が紹介され、討議された。改善への実現は今も道半ばであり、仲間や両親がその遺志を継ぎ、難病患者の支援活動を進めている。