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天国からの贈り物

2014年1月29日

今回は奥様を乳がんで亡くされた後、子育てに奮闘してこられて、その一段落と共にリレー・フォー・ライフに参加するようになった方から原稿をいただきました。

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ルミナリエはリレー・フォー・ライフの印象的なセレモニーです。
夕暮れに灯されるキャンドル。
その光に浮かび上がるメッセージは、がんで亡くなった方を偲び、
また、がんと闘っている人たちを応援して、がんに立ち向かう勇気を見出します。

日中のにぎやかだったステージイベントが終わり、ルミナリエの灯が夜の帳の中で揺らめくころ、『リレー・フォー・ライフ』が私だけの時間になります。
妻と交わした約束のこと、妻が残してくれた宝物のこと、私たち家族を支えてくれた多くの人たちのこと、そして今年も『リレー・フォー・ライフ』に参加していること、そんなことに思い巡らせながら私は歩き続けます。

1995年の秋が深まった朝に、妻は40歳の人生を終えました。
小学校の教師だった妻は、結婚後も仕事、家事、育児を見事にこなすパワフルな女性で、私にはそんな彼女が少し自慢でもありました。
35歳の時、突然と思えるように『乳がん』が見つかり、医師の勧めで右乳房を全摘出。手術を終え、心配する家族を前に「絶対に職場復帰する」と言い張る妻にはあ然とさせられながらも、何かほっとした記憶が残っております。妻は手術の後遺症で上がらなくなった右腕をリハビリで見事に克服し、宣言通り学級担任として職場復帰を果たしました。後で聞いた話では前と変わらない几帳面ぶりで大きな文字を黒板に書いていたようです。

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在りし日の妻の写真です。
この頃、既に転移が見つかっており、
妻は再び『がん』と闘うことを決意しておりました。

手術後4年経った春に恐れていた転移が見つかりました。無残にも消し飛んでしまった希望の光。再発した『がん』は今までとは打って変わるような凶暴さで、あらゆる治療をあざ笑うかのように妻の体を蝕んでいきます。
「奥さんは来年の桜を見られないかも知れません」と、主治医に告げられた時、私は『がん』に無力な医学に落胆し、妻を救えない、妻に何もしてやれない、という現実が何かの間違いであって欲しいと祈らずにはいられませんでした。
妻が頑張っている間に『がん』の新薬が作り出され、その薬で妻が元気になる。そんな奇跡を願う日々は空しく過ぎていきます。
「子供たちのこと、お願いします」
「なぜそんなことを言うんだ」
「・・・わかった、心配しなくていい」
それが妻と交わした最後の約束になりました。

妻がいない家の中で私の苦闘が始まりました。一気に押し寄せてくる雑多な用事は、私にとっては時間のかかることばかりです。その中でも一番困ったのは毎日の食事の用意でした。慣れない私の作る料理は、子供たちにとっては母親の味には遠く及ばない、味気ないものだったと思います。それでも子供たちは一言の文句も言わず食べてくれるのですが、いつの間にか食卓から笑顔が消えてしまいました。
「これではダメだ」そう思ったある日、妻が読んでいた料理雑誌のページを捲っていると、小さなメモが挟み込まれているのに気付きました。それは懐かしい妻の字で、そのページにある料理のポイントが几帳面な文字で書かれています。調べてみると他のページにも、そして他の本にも、同じように、何枚も。まるで私が困ってそのページを開くのが分かっていたかのように挟み込まれているのです。
「あっ、お母さんの味だ」
春巻きを口にした子供たちの顔が輝きました。
妻の残した小さなメモは私にとって大切な宝物になり、そして、それからの私たち家族を支えてくれました。

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2013年千葉大会のオープニング写真です。
プロカメラマンの宇佐見 健氏が特殊機材で参加者全員の集合写真を撮ってくれました。

無我夢中だった子育てが一段落した2008年の年の瀬が押し迫ったある日、友人が持ってきた動画に私は釘づけとなりました。
『リレー・フォー・ライフ』という初めて聞くイベント。
動画はその年、横浜で開催された大会の様子を編集したもので、かつての妻と同じ境遇にいる人たちが、自分が『がん』と闘っていることを宣言し、皆、笑顔でトラックを歩いています。サバイバーと呼ばれている彼等や彼女たち。そして、そのサバイバーを支援する大勢の人たちも、『がん』への思いを書き込んだフラッグを掲げて仲間と一緒に歩いています。中には故人となった娘さんと思われる写真を抱いて歩いている方も。
「これ、24時間歩き続けるんです」と言う友人の言葉に、私は心を揺さぶられました。

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千葉実行委員の素敵な仲間たち。
2012年の「ご苦労さん会」の写真です。
この笑顔に会いたくて私はリレー・フォー・ライフを続けているのかも知れません。

『リレー・フォー・ライフ』は1985年、米国で一人の外科医が、がん患者を支援するため、24時間トラックを走り続けたのが始まりで、彼の志に賛同した多くの人々によって世界中にこの慈善活動が広がっているということ。日本では一人のサバイバーの呼びかけで、2006年、つくば市で日本初の『リレー・フォー・ライフ』がスタートし、その輪が全国各地へ広がっている。そんなことを私は知りました。

『がん』と闘っている人たちや、最愛の家族を『がん』で亡くし、悲しみの中にいる人たちのために自分は何かをしたい。それは妻を亡くしてから13年間、私の胸の奥で思い抱いてきたことであり、妻が『がん』と闘ってきた証として、私がやらなければいけないこと。そう思い続けてきたことでした。
『リレー・フォー・ライフ』ならそれができるかもしれない。
妻の小さなメモが私に勇気をくれたように、今度は自分が、仲間と一緒に『がん』に立ち向かう勇気を呼び起こしていきたい。
『リレー・フォー・ライフ』に参加しよう。私はそう決意しました。

【佐恵子、見てくれているかい/僕は君との約束を果たせただろうか】
そう書いたルミナリエに明かりを灯して、私は今年もトラックを歩き続けています。

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プロフィール
下村達也
1953年生まれ。北海道苫小牧市出身。現在、千葉市在住。
1995年に妻を乳がんで亡くす。2008年「リレー・フォー・ライフ」と出合い、会社の同僚と初開催する大会へ会場計画などのプロボノ支援を決め、翌2009年から、埼玉大会、千葉大会、東京駒沢大会、横浜山下公園大会、日野大会と支援を続けチーム参加も行う。昨年は千葉実行委員会の事務局長を務める。