神波 やす江さん

主婦の底力

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神波 やす江さん
リレー・フォー・ライフ2009,2010静岡
実行委員会 事務局長

かぐや姫の里は薄雲がたちこめ、山々の姿は想像するよりほかない。霧雨を縫うように、さっそうと姿を現した。富士山のふもとで生まれ育ったこの人は、地元での主婦生活が打って変わりこの何年かはとても忙しい。
家族のがん宣告、リレー・フォー・ライフ、そして今は人口28万人の故郷で民生児童委員を引き受けて150世帯を受け持つ多忙な日々を送っている。

誰しもそうだが、子どもが病気になると自分のこと以上に胸を痛めるものだ。2005年に34歳の愛息が直腸がんの告知を受けた。症状から別な診断を受けながらも、母は再三にわたり検査を促し続ける。がんは進行が進んでいた。ⅢAですぐ手術、抗がん剤治療も終わるころ、息子よりも深刻に感じた母はこの病気をさらに深く知りたいと調べだした。3ヶ月後に大阪で開かれた第1回患者大集会の昼休みに映し出された米国での映像を後日見て、衝撃を受ける。自らを患者だと堂々と宣言し、楽しそうに歩くリレー・フォー・ライフに、病気の公表に戸惑う日本での現状を重ね、この催しに関わりたいと思った。

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国内でのリレー・フォー・ライフは2006年秋に茨城・筑波大学でトライアルとして開かれたことを原点とする。日本にはその2年ほど前にもたらされていた。映像を見た何人かの患者と家族の想いが急速に実現へ向かわせ、時機を得たプログラムは現実味を帯びる。
リレー・フォー・ライフを実現するために集まった「がん患者支援プロジェクト」のメンバーを中心に熱気あふれる開催準備が始まった。

神波も、この渦にいた。リレー・フォー・ライフの理念や基準を抑えてなお、「日本らしさ」も出そうと、読み聞かせや千羽鶴づくりも進めた。
「みんな燃え尽き症候群になるほどでしたね。仕事や家事どころではない、それはそれは一生懸命で、だからこそあの時の仲間は今でも強いきずなで結ばれているんです」
みんなで歩くことも大きな目標だった。しかし、会場運営に忙しく、参加チームのメンバーとは1、2周しか歩けなかった。
その思いを実現しようと、翌年の芦屋では仲間たちと共に目いっぱい歩いた。3万歩になった。
北海道に初めてリレー・フォー・ライフの精神を持ちこみ、室蘭で地域色豊かな、雰囲気のある開催を植えつけた故金子明美さんと仲が良かった。つい先ごろ墓参もし、家族との交流が続く。息子と同じ病気であることに始まり、永遠の人になるまで、リレー・フォー・ライフの各地で親しく語り合う2人の姿があった。

静岡の開催では、つくばに始まっていらい肌で感じ続けた楽しさ、知り合った色々な人の思いをつなげたいと胸に温めていた。

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実行委員会が動き出した。開催をめざす多くの人々が議論を重ねるとつい大きな声も聞こえる。その中で、いつも静かな姿に出席者はほっとしている。

「あの顔を見ていると、何とかまとめてくれると思う」と、活発な会議の合間に一人が言ったのは、多くの仲間が感じていることだった。

自らは、「はっ、はっ、何を言われても子どものころから感じなくって、はっ、はっ」と冗談めかして自己評価する。沈着冷静な性格通り、実行委員会づくりの前にまず「広める会」をつくってスタッフを募集し、並行して徐々に本格的な会にしていく方法をとった。

騒音、寄付、チーム作りなどの心配があっても、その都度みんなで乗り越えようとする名まとめ役だ。
それまで、なかなか思うように進まなかった会場探しも、スタッフ10数人ほどで下見に出かけた競技場でみんなの気持ちを話すと、その場で許しが出た。

大勢の前で説明をすると「話が飛びすぎる」などと言われることもある。一方で、「でもあなたなら許せる」とその誠実な人柄に、賛同者は多い。「ふとした病気との出会いで知ったこのプログラムを、ぜひやりとげたいと思う一心でした」

同じ文面のコピーを一度にまとめて多数に郵送するのではなく、一人ひとりに面談して協力を頼む手法をとるこの人は、難題を次々に乗り越える。
「几帳面だからあの人にいわれると納得してしまいます」
と仲間の一人は、
「根っからの人柄が難しいことを片付けていく理由だ」
と魅力を語っている。

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―振り返ると、この数年はどんな年でしたか?
「人生のターニングポイントでした。ずっと主婦だけでいれば全くつながらなかった大勢の人たちが今はそばにいる。一つの目標をみんなでやりとげるというのは、主婦としては味わえない醍醐味でした」

――リレー・フォー・ライフに魅力があるとしたら、それは何ですか?
「私は感謝している。母としてどうしたらよいのか途方に暮れていたあの時に、人と人の絆がどれだけ自分を救ってくれたことか。年代、性別、病気や健康かどうかを問わず、だれもが参加できることで、それぞれが感動を味わう、そこでしょうか」

産業の街・富士市には自動車部品工場で働く人が多い。100時間を超す研修を経て、外国人に日本語を教える日本語サポーターとして、いま、ブラジル人学校の小中学生に日本語を教えている。

「あなたしかいない」といわれ民生児童委員を引き受けた。生活保護、一人で暮らす高齢者の支援や、児童虐待、親を失った子どもたちに透き通ったまなざしを向けている。

静岡・御殿場での2度の開催を経て、今年から次の段階に入ろうとしている。再び広める会の活動を始め、御殿場で繋がった仲間たちとも集う。

「気持ちを燃やしながらつくばに参加したあとに亡くなった方たちの思いをつなげたい」
という。

自らの誕生日を2度とも御殿場の会場で迎えた。また近い将来、静岡のどこかの会場で、3度目のその日がくるのかもしれない。

(敬称略)

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