2014年02月26日(水)
今回は息子さんの小学校入学を間近に控えたタイミングで大腸がんと診断され、その後仕事を休職して手術、現在はがんと鬱とつきあいながら生活されている方に書いていただきました。
わたしと家族が書いたルミナリエバッグ。
この後豪雨のため、すべてを撤去し、再度配置をし直し、
修復作業をし、雨の中美しくあたたかく明かりが灯りました。
―2013年の「リレー・フォー・ライフ・ジャパンふくい」に実行委員として参加された小野玲奈さんからの原稿―
2011年1月、首都圏の大学病院で大腸がんと診断されました。まだ36歳という年齢でした。わたしは成田空港で航空会社の地上職として働いており、4月には一人息子の小学校入学を控えていました。
告知はあまりにもあっけなく、涙すら出ませんでした。比較的がんだという事実は冷静に受け止めることができましたが、がんである、という診断に至るまでに1年半もの時間が経過していたという事実があり、そのことへの怒りや悲しみ、医療への不信が大きく、それに向き合うことが何よりの苦しみでした。
2009年秋、会社の健康診断で便潜血陽性のため要精密検査、との通知を受け取ったため、当時喘息で通院していた大学病院の医師に相談し、改めて便検査を5回行いました。結果はいずれも陽性でしたが「精密検査の必要はない」との診断でした。その後不安になり再度精密検査の必要性を尋ねましたが、返ってきたのは同じ回答。これ以上医師に逆らうことはできない、医師だからこそ分かる何かがあるから精密検査は不要なのだと思いました。
そして1年後の2010年の健康診断の際、健康診断担当医師にこの経過を説明したところ「ありえない! いますぐ検査を」と言われ、やっと予約が取れた1か月後に内視鏡検査を受けました。そしてまさかのがん告知。1年半もがんを育ててしまっていたの?! と呆然としました。調べてみると便潜血陽性の場合は絶対に精密検査をするもの、早期であればあるほど完治率が高い、とそこここに書いてあるではありませんか。こんな病院や医師に自分のからだは任せられない、とホームドクターが紹介してくださったほかの大学病院に転院することを決め、その日からがんとの闘いが始まりました。
リレー・フォー・ライフ・ジャパン2013ふくい実行委員会のみなさんと
終了後に記念撮影。
皆さんと出会えたおかげで、少しずつ前向きになれました。
本当にありがとうございます。感謝!!
毎日のたくさんの検査、仕事のこと、息子のこと、考えることは山ほどある上に、最初に診断されたがんの部位が間違っていたことやポリープの見落としがあったことが転院先で判明し、この怒りをどうしたらいいのか、と頭は混乱するばかりでした。そんな中でも、転院先の病院に恵まれ、ここでこのチームの先生方に治療してもらいたい、とわたしも家族も強く思えたことは幸いでした。
奇跡的にも術前検査では転移は認められず、術後の診断も「予想していた中では最高の結果」と主治医は言ってくれましたが、がん摘出退院後10日程度で腸閉塞になり再手術、息子の入学式は病院から外出という形で参列しました。長期の休職を快く会社が認めてくれ、戻ってくるのを待っているから、と言ってくれたおかげで、2012年7月に復職。大好きな仕事が出来る幸せと会社の温かい対応に感謝しました。しかし2012年11月、再度の腸閉塞で再々手術。そしてその入院中、今までの度重なる入院と手術を含む病気のこと、信頼していた人の裏切りなどが重なって、鬱病が重症化しました。以前から自覚しないうちに躁鬱を繰り返していたようなのですが、それ以降は毎日泣き暮らし、死ぬことばかり考えるようになりました。このような状態で子育てをしながら家庭を維持することは難しい、主人が仕事の間人目がないのは危ない、ということなどから、2013年4月、息子と二人で福井の実家に帰り療養することになりました。
2013年のリレー・フォー・ライフふくい、ファイナルラップ。
福井では、その前の年に開催したときのみんなの寄せ書きを持って歩きます。
リレーとの出会いは2011年、知り合いの紹介でした(首都圏での開催)。がんになってから患者会やサークルを探しましたが、残念ながらこれと思うものに出会えなかったわたしは、誰か話ができる人と出会えるかもしれない、と期待して参加しました。ですが行ってみると、「女性特有のガンじゃない」「ストーマまでいってない」「若年性というには結婚もして子どももいるから」という排他的な空気。もう二度と参加すまいと後悔し、がんになったことを心底悲しく思いました。本来は希望をつなぐ場所であるはずなのに、と。
しかし故郷福井で2011年に日本海側初のリレーが開催されたことを知っていたわたしは、福井に戻ってから2013年福井の実行委員長が偶然にもはとこであることを知り、これは何かが違うかもしれない、と実行委員会担当者に電話をかけました。話はとんとんと進み、今度はサバイバー実行委員という違う形でリレーに参加することになりました。その頃は鬱もひどく、部屋の隅で一日座っているような生活でしたが、委員会があるから、と少しずつ外出するようになり、人とも話せるようになりました。委員会に温かく迎えられたことが、わたしの生活を変えてくれました。リレーの日は豪雨となり開催すら危ぶまれましたが、すべてのルミナリエを点灯し、二日間を会場で過ごし、初めてわたしは本当の意味でリレーに参加することができました。みんなで作り上げたあのリレーでわたしは救われたのです。涙し、笑い、語り、失っていた様々な感情を取り戻しました。
わたしのルミナリエバッグの言葉は「光は闇に輝く」。大好きな作家、三浦綾子氏(長い諸病の闘病の末、がんにて逝去)の記念館を2012年に念願かなって訪れた際、本を何冊か購入しました。その時は気が付かず、何気に手に取ったものを購入してきたのですが、実は一冊一冊に違うメッセージが夫である三浦光世氏の直筆で書かれていました。その中のひとつが「光は闇に輝く」。今のわたしへの言葉だ、と思いました。そう、光だけでは見えないものがあって、闇だけでは見えないものがある。日の落ちたグラウンドに雨のなか灯った美しく温かいルミナリエの光。HOPEの文字。これは続けていかなければ、こんなにがんになる人が多いのにこれという確実な治療法がないなんて、もっといろんなことを知ってもらうことから始めなければ、などといろいろなことを思い、息子が大きくなる頃には何かが変わっていてほしい、出来ることをやっていかなくてはならない、と前向きに考えられるようになってきました。
がん摘出からちょうど一年の2012年2月24日。
主人と息子がサプライズパーティーをしてくれました。
「これからも一緒に頑張ろうね」とプレートに書かれています。
二人から手紙をもらい、感動しました。
「病気になってよかった」と言えるほどわたしは出来た人間ではありません。がんも鬱も長く付き合わなければならない病気です。再発に怯えながらこれからどれだけの年数を生きなければならないのか、息子が大きくなるまで生きていられるのか、自分は何ができるのか、不安だらけです。でも、「病気になったから」出会えた人、気が付いたこと、それがあることだけは確かです。
最後に。つらく寂しい思いに耐え、幼い時からずっとわたしを気遣ってくれている最愛の息子、大きな心でいつもわたしを受け入れそばにいてくれる主人、大切な家族、友人たち、そしてわたしのいのちを救うためにいろんな形でかかわってくださっているお医者様たちに報いるためにも、「もしも人生が短いとしても悔いがないように太く生きていこう」と思っています。
プロフィール
小野玲奈 (写真右上)
39歳 福井県出身。航空会社地上職。
36歳の時大腸がんと診断され、腸閉塞2回を含め、2年で3度の手術を受ける。
ようやく手術から3年を迎え、がんと鬱と共存していく人生を模索中。
リレー・フォー・ライフ・ジャパン2013ふくい実行委員。今後も毎年福井のリレーに参加することが目標。
大人とも子どもとも一緒に「がん」について話せ、考えられるような、そんな社会になったら…。そのための活動がなにかできないかと思案する今日この頃です。