リレーっ子誕生
大菅善章さん
岡崎実行委員長
リレー・フォー・ライフの仲間たちを沸き立たせるニュースが、2011年初頭のメールをにぎわせた。赤ちゃん誕生を伝える父からのメッセージに「わっ」と驚かされ、続いて「希望を現実にし、わくわくさせてくれる話だ」と、正月気分も失せようとするこの時期、浮き浮きした気分になった人が多くいた。
愛知県岡崎市の健康夫婦という代名詞は知る人ぞ知る。夫の善章、妻の年美 。同じ包装資材の会社で働く職場仲間だった。50人ほどの仲間で健康NO1、NO2はだれ、と話題になればこの二人と名指しされる存在だ。サッカー、マラソン、週に4、5回はジムに通う夫。妻は、名門高校から推薦で体育大学に引き抜かれ、4年生で全日本選手権に出場、実業団の中心的な存在だったという名テニスプレイヤーだ。二人を知る人々は、見るからに健康そうなその容姿もあり、病気とはおよそ縁遠いと考えていた。
2008年は師走がそこまで迫っている。自宅の居間に並んで座り、テレビを前に二人は目をうるませていた。この年秋に芦屋で開かれたリレー・フォー・ライフを舞台に特集した番組が流れている。「いいよね」「うん」「やりたいな」「うん」。参加しようではなく、やろうという言葉が出るところがそれまで積極的に暮らしてきた二人の真骨頂を思わせている。
前年からの2年間というもの、健康夫婦には大きな転換期が待っていた。
妻は、ふろ上がりに左胸がかゆいと感じてふとあてた手にしこりがさわった。すみやかに温存手術となる。抗がん剤治療が続き髪の毛も抜けた翌年の春、夫にタール便がでた。胃がん。1Aの早期だったが、胃を3分の2摘出した。相次ぐ災いの来襲に夫は、「順番が逆でなくてよかったと思いました」という。がんという病気が、初めて目の前に現れた衝撃は夫婦はもとより仲間たちにも広がった。
実は夫婦にはもうひとつ悩ましいことがあった。職場結婚の二人にとって、子どもを持ちたいという願望は強かった。「同居する義母も望んでいたし、子どもが大好きなので年齢的なことは気になるけれど、欲しかった」と大菅はいう。不妊治療を始めていた。どうしても小さな家族が欲しかった。どうしても義母に孫を抱いてもらいたかった。
しかし、夫婦とも仕事が忙しく、なかなか思い通りの結果は得られない。妻の発病は、そんな折のことである。受精卵を凍結保存して抗がん剤が体から抜ける半年後に、再び治療を再開することにした。長い空白とその先には絶望の言葉が居座っているのかと思えた。うまく体内に戻すことができても、着床率は1‐2%というのが医師の見立てだ。願いと現実の狭間は大きく感じた。
芦屋でのリレー・フォー・ライフにテレビでくぎ付けになってすぐ、この催しを調べ始めた。たまたま、岐阜での開催が決まっていたのをみつけた。連絡を取ると実行委員会は温かく迎えてくれた。親戚や仲間でチームをつくる。「見ることやること、すべて感動でした。会場に集まった人々の温かさを肌で感じました」。岐阜から100キロ離れた自分の地元で開きたいとその場で思った。主人がつくづく有難いと思ったのは、自分の気持ちを周りの仲間が、「いいね、これ」「岡崎でやろう」「素晴らしいな」と言って支えてくれたことだ。岐阜の会場の夜、暗闇の中で気持ちは決まった。
整理がつかないことがなかったわけではない。胃の手術を経て生活はとても変わっていく。
社内で最も売り上げが多い部署の営業管理者だったから、責任もある。石油価格が上がる大変な時期だったので、普通でも苦労するというのに術後一カ月で復帰した後は、体が耐えきれなくなっていく。偏頭痛に悩まされ、それでも夜遅くまで事務作業に追われた。
「もういいよ」と、疲労と体力の低下を見るに見かねた妻が言ってくれた。私が働くから、と妻は盛夏を前に仕事場に戻っていった。
長年勤めた包装資材会社を辞めた。岐阜でのリレー・フォー・ライフ開催が迫っている。なぜ参加し、どうして関わるのかと聞かれれば、「会場には待っていてくれる人がたくさんいるから」と答えた。
閉幕後新たに踏み出したガソリンスタンドでの仕事は朝7時からで、体力を使う。そのころは、再結成した音楽バンド「NOVA」も生きがいの一つだった。毎週日曜日の夜を仲間と過ごす楽しさ。20歳のころから続けるドラムだけでなく、がんにかかったから浮かんだバンドからのメッセージ「YES WE CAN」を織り交ぜて練習を重ねた。夏の猛暑で67キロあった体重が60キロに減っていく。
岡崎開催が迫る2010年夏は、こんな時期だったことに加えて超ド級のニュースが飛び込み忘れられない。
着床率がとても低いと言われた不妊治療が実を結んだ。「奇跡だよね」と夫婦も家族も医療者も驚いた。赤ちゃんをさずかった可能性を示す数々のデータが示される。周囲は沸き立った。リレー・フォー・ライフ開催の準備は進む。仲間たちは力を惜しまず、体に気遣うよう妻に話しながら、誕生を待つことになった。
むろん安静にといわれるが、妻はついつい素早く動いてしまう。「気を使いながら大変な時期でしたが、リレーは必ずやりたかった。盛り上げてくれる人がたくさんいるし、ぼくが中心にならなくてはとずっと思っていました」。こう話す夫は、妻と小さな命を気遣いながらも、リレー・フォー・ライフにまい進した。大切なキーワードは「絆」、シャツの背中を飾った見事な初開催だった。
にこにこしながら、父と母の腕に交代で抱かれる男の子は、輝いている。大菅康暉君、2011年1月18日生まれ。明るく健やかにと名付けられた。全国のリレー・フォー・ライフの仲間たちは誕生を知り、「これはリレーっ子」と大喜びした。みんなで心配し、楽しみにしていたから大歓声をあげた。
夫妻は口をそろえて「うれしい」という。そして、リレー・フォー・ライフをなぜするのかという問いにそれぞれこう答える。
「知っている仲間も初めて会う人でも、同じ痛みを分かち合いながら時間を過ごすことができる。とても励みになり、病気に勝つことの達成感を味わえる。私の運動量は適度ではなく、やり過ぎていた。ずっと頭痛に悩まされた選手時代なのに、がんになり、リレー・フォー・ライフを知り、食事や生活に心がけたことでそれは今ないのです。仲間が増えたのもリレー・フォー・ライフのよさ」と妻はいう。
「泥臭いイベントでおしゃれではない。それを理解しながら一つになれる。昨日まで存在すら知らなかった人が、横にいて一緒に歩いているんですから不思議です」と夫はいつもの笑顔を欠かさない。
昨年までの2人は3人になり、一緒にグラウンドに立つ。健康夫婦の、本当の復帰かもしれない。
(敬称略)