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佐藤弥生さん

今や自分の日常

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佐藤弥生さん
横浜実行委員会副委員長・東京実行委員会事務局長

ボランティアは共感なくして続かない、とはよくいわれるが、専門家はその真髄を「居てもたってもいられない気持ち」だと分析している。混雑する通勤電車で職場に通ううち、がん告知、そして復帰、再び満員電車生活が待っていた。佐藤弥生の言葉に従えば「社会人になってからずっとハード、その後も超ハード」という働く生活。闘病生活。その中でのボランティア活動。なにがそうさせるのか、何故なのだろう。 

リレー・フォー・ライフ横浜2008の実行委員会はいつも活気があった。初めての開催でもあり、ああしよう、こうしようと大勢が発言し前向きな雰囲気があふれていた。開催まで3ヶ月に迫り、初めてRFLに足を踏み入れた2008年夏の、あの光景が忘れられない。会議室から実行委員ははみだし、壁ぞいにずらりところ狭しと身を乗り出す人々がいた。その中心には、治療を受けながら初開催を呼びかけた三浦秀昭もいる。

彼らを含めてがん経験者がたくさんいた。「とてもあわただしく、こんなにサバイバーがいるのかとそれに驚きました」と佐藤はいう。初参加の役割はサバイバー担当で、開催日に会場に集まって来る仲間の多さにまたびっくりした。ここでは、サバイバーたちがこともなげに自身のがん体験を語り、「来年もここで会おう!」と交わしあう。「いいな」と思った。

「サバイバーが社会へ向けてアピールをする姿勢は私が告知された1999年には考えられなかった」。以前から乳がんの啓発に取り組む運動に参加していたが、RFLを知り、「がん患者が何かを形にしようとしている気迫」を感じた。寄り集まって何かをつかもうとしている治療中のサバイバーたちを、同じ経験者として支えたいと思った。

その冬、佐藤は自宅でアメリカのRFLの意義などを記したアメリカ対がん協会(ACS)のガイドラインを読み込んでいた。一つひとつのル‐ルや活動がとても意義深く感じられた。国内の企業も社会貢献型のコーズマーケティングに目を向け出したころだ。自身の職場でもとりいれられないかと思った。興味を持って、今の日本のリレーの現状はこうで、良い点はこう、とSWOT分析してみた。RFLの活動は、イベントのときだけでなく通年つまり日常生活への組み込みが大切だが、イベントがシーズンオフのこの時期に「日本らしいがん啓発のチャリティ活動」に目を向けてアクションプランをたてていた。「机上の空論ですが」と本人はいう。そうではなく、それこそがシンプルにリレー・フォー・ライフの真髄に触れている。

職場を変えて2年目、2000年問題が社会で話題を呼んだころ、「がん」といわれた。マンション購入で「ローンを組む前にヘルスチェック」と思っての健康診断でそう告げられ、帰りの本屋で子宮がんの本をはじめて手に取り買って帰った。手術、抗がん剤、一ヶ月の入院。手術前に主治医から「半年以上の治療が必要な可能性が高い」と告げらた。治療が長期にわたると経営改革真最中の職場に復帰しても元通りにやっていこうとする気持ちが萎えるかもしれない。抗がん剤も放射線も副作用もあるだろう。でも、自分の病状にあった治療は必要だ。米国国立がん研究所やがん治療学会のデータを国会図書館で調べながら病理検査の結果を待った。当時は今のように気軽に日本の情報を手に入れられなかった。2000年問題の影響で2ヶ月待たされた病理結果は、1B2。リンパ節転移はないが脈管侵襲はある。様子を見ながら抗がん剤内服で治療を進めることになり、告知から4ヶ月後に職場復帰した。

横浜2009は副実行委員長、東京2010は事務局長としてまとめ役に入った。

――相変わらずの仕事です。落ち着いたとはいえ、RFLのまとめ役をするのはなぜですか?

「仕事だけでなく、なにかしっかりとした社会貢献をしたいという気持ちがあります。ただ、仕事があるのでできることに限りはあります。リレー・フォー・ライフは多くが集い、それぞれの力を持ち寄ることで、仕事をもっていても手伝いをするだけでなく主体的にかかわることができる。仕事で培ったスキルを社会に役立てられるだけでなく、いつもの仕事とはちょっと違う経験をすることもできる。同じ気持ちを持つ異業種の仲間たちとの出会いもある。癌研病院の情報センター設置などに自分の活動が少しでも役立てられていると知ったときは本当にやってよかったと思いましたし、リレーにいらっしゃった患者さんの前向きなメッセージなどは自分の心の力にもなります。」

――あなたをみていると、カッとしないですね。大勢が集まって企画を進めるときに意見の違いがでたとき、どのようにさばくのですか。コツは?
「子供のころから、あまり気にしないので、はっはっはっ。意見の対立も、それぞれの思いあってのことですし」

健康意識は強くある。自分の病気治療には有酸素運動がよいらしいと知って策を練った。長く通っていたスポーツジムでは、術後のリンパ浮腫のこともあり、筋力アップやエアロビクスをやめてヨガ中心に変えた。野菜や果物などを意識してバランスよくとる。きっちりしすぎた生活習慣を少しゆるめた。
そして、心のサプリメント。「RFLの活動は、今や自分の日常」という。

――病気によって、個人だけでなく社会に対する向き合い方が変わったのですか?
 「多くの人は子どもを生み育てることで次世代に橋渡しができる。でも、がんで子どもが持てない私はそうした『あたりまえ』の社会貢献はできない。自分がボランティアをしているのは、その代わり世の中のために別な形で貢献したいという気持ちが働いているのでしょうか。がんになって、さまざまな夢をなくし、いろいろな可能性を失くしたとしても、また、新しく『生きる意味をみつけることはできる』というメッセージを伝えたい」

――あなたの理想のリレー・フォー・ライフってどんな姿ですか?
 「もっと気楽にできたらいい。がんばらない、交代で家を行き来しながら楽しむ。○○夫妻の友達の友達の友達の・・・が集まるRFLとか、「ちょっとした公園でちょっと集まろう」、というようなラフなスタイルでしょうか」

(敬称略)