【The Stories of ASHIYA】 2年と10か月

2019年8月31日 5:24 PM

 
 
 
2011年11月、こーたが2歳6ヵ月の時、告げられた病名は「急性骨髄性白血病」。 
子どもの「急性骨髄性白血病」7割は寛解すると言われる中、お医者さんからこーたのタイプは5年生存率0%と告げられました。  
 
「第1クール終了後の検査で寛解に至ってなければ、骨髄移植をします。ご兄弟はいらっしゃいますか?」  
 
 
骨髄移植って?兄弟って? 
その言葉の意味が、頭に入ってきませんでした。  
 
小学4年生だった長男が、ドナーになることは正直複雑でした。 
それでもこーたのためならと思いましたが、残念ながら候補からはずれ、私も適合しませんでした。  
 
 
 
 
 
こーたのタイプの「急性骨髄性白血病」が少ないからという理由なのか、治療方法は、数年変わっていないように感じられました。予後が不良でも、タイプに関係なく同じ治療方法しか提示してもらえないように思えました。  
 
6ヶ月に及ぶ長い治療を終えて退院したとき、抗がん剤や輸血の為の点滴のライン、”命”をつないできたCVカテーテルは、抜去されず、胸にささったままでした。 
 
 
1週間ごとの外来通院がつづき、そして、わずか2か月足らずで再発しました。  
 
再発までの時間が短すぎました。  
 
難治性、生存率、そんな言葉がぐるぐる、またぐるぐると、・・・考えたらアカン、アカンのに考えてしまう。 
 
 
そんな状態で、臍帯血移植へ向けての治療が開始されました。  
 
そして治療開始直後、骨髄抑制でこーたの身体が無防備な状態の時に、朝方、主治医から1本の電話が・・・。  
 
「お母さん、落ち着いて聞いてくださいね。こーちゃんに髄膜炎の症状がでて、先程、PICU(小児集中治療室)に移りました。」  
 
 
そこは重篤な状態の子が入るところ・・・。  
 
よぎった不安は、打ち消しても打ち消しても消える事がなく、震える手でハンドルを握り病院へ。 
なんで、こんなに病院が遠いんやろ。早く会いたい 。抱きしめたい・・・  
 
どうやって病院に着いたのか覚えていませんでした。  
 
 
もうろうとした目、苦しそうな呼吸でベッドに横たわるわが子、手や足、身体のあちこちにつながれたライン。  
 
主治医から、 
「これ以上予定していた治療はできません。唯一の望みは移植しかありません。ただし、今の容態では、移植前の全処置すらできません。こーちゃんが耐えられない。明日、どうなるかわからない状態としか言えません。」  
 
 
白血球がゼロに近い中、高熱が2週間も続き、低ナトリウム血症、そしてけいれん・・・。 
死と隣り合わせの状態が、4週間近くも続きました。  
 
 
 
 
そんな中、主治医の先生から 
「お母さんっ!ドナーがみつかりました!それもフルマッチでさらに8分の8です! 最短のスケジュールで移植ができます!」  
 
 
骨髄移植ができる!? まさかこんなに早くドナーが見つかるなんて!  
 
移植は危険な治療で、厳しい条件ではありました。だけど、ドナーさんが、ためらう事なく移植を承諾してくれたこと、少しずつこーたの状態がよくなってきていたこと。  
 
きっと乗り越えられる!  
 
強く願い、信じ、移植に挑むことを決めました。  
 
 
九州にお住まいの女性。骨髄ドナーの方に、感謝してもしきれない、会うことができない命の恩人。  
 
 
 
 
 
PICUからようやく一般病棟に戻れた時には、こーたの身体はやせ細り、体力が戻る間も無いままミニ移植に向けての全処置がはじまりました。  
 
万全で挑んだ移植でなかったこともあり、移植後のコントロールが難しく、サイトメガロウイルス肺炎で苦しみ、明日どうなるかわからないと言われた日々もありました。  
 
だけど、こーたは乗り越えてくれた。  
 
 
外出許可が出たのは、夏から秋に季節が変わる頃。  
 
3か月ぶりの外の空気。ほんの数時間だったけど、病院近くのおもちゃ屋さんに行きました。  
 
移植後の食事制限中、食べても良いと言われたチキンナゲットとポテトを口にすると、とてもいい笑顔になりました。入院していた病院は、食べ物を持ち込めませんでした。好きな時に、好きな物を食べることが、当たり前でない入院生活の中、小さなことでこんなに幸せを感じることができた日。  
 
 
その日は、人生で一番ステキなプレゼントをもらえた、私の誕生日の日でした。  
 
 
 
 
 
長い入院期間を終え、退院。そしておうちでの穏やかな日々は、長く続きませんでした。  
 
夏の暑い日、2度目の再発。 
がんはものすごいスピードで増殖し、こーたは全身の痛みに苦しみました。  
 
何もできないもどかしさと、そばで祈るだけの日々。 
 
 
骨髄移植で抑えられなかったがん細胞。効果が弱くなる臍帯血移植で抑えられるの?  
 
危険な移植と承知で、骨髄の型が半分一致の「ハプロ移植をして下さい!」 
と担当医に思いをぶつけてみました。  
 
成人では多く行われるようになっていましたが、小児ではごくわずかで、移植できる病院は全国で2カ所しかありません。  
セカンドオピニオンを希望し、ハプロ移植ができる病院に。  
 
しかし、「いまの状態なら、リスクの少ない臍帯血を進めます」 
と告げられ、臍帯血移植を選びました。  
 
何が正しくてそうでないのかは、誰が決めるわけでもないけど、あの時選んだ道、今もその時の選択に苦しめられることがあります。  
 
移植は、臍帯血によるフル移植でしたが、前回にくらべ、こーたは食欲もあり、元気で挑むことができました。 
なのに... 
 
 
3週間経っても、白血球が増えず生着不全となり、再度、臍帯血移植をするため、また前処置をしなければなりませんでした。  
 
限界値を超える放射線を全身にあびること、使える抗がん剤も限られてきたこと、蓄積された薬が、身体に及ぼすダメージ。治療を乗り越えて、こーたのこれからの人生、身体はどうなっていくのだろう。そんな心配でいっぱいになりました。  
 
 
 
 
 
ベッドから出られない状態が2カ月も続き、子も親もストレスの限界でした。  
 
看護師さんや保育士さん、心理士さんに支えられ、そして何よりも力をもらえたのは、ともに病気と闘うお友だちと、お友だちのお母さんお父さん。  
 
苦しいこと、ツライこと、かなしいこと、うれしいこと、一番よくわかってくれる存在であるような気がしていました。 
つらい病院生活のなかで出来た大切な家族のような存在。  
 
そんなみんなに応援してもらい、喜んでもらって退院することができたのは、1月も終わる寒いころでした。  
 
 
 
 
それなのに・・・長男が中学の入学式を迎えるころ、3度目の再発、そして余命宣告。  
 
それは、こーた5歳のお誕生日の4週間前でした。 
 
 
「こうちゃんにしてあげられる治療はもうありません。」  
 
あの時の先生の顔は忘れられません。  
 
私の骨髄でハプロ移植を、してくださいとお願いしました。  
 
「そんなことをすると、二度とおうちに帰れなくなります!今は少しでも長く、ご家族と一緒におうちですごせるようにしてあげましょう。」  
 
先生の言葉に、 
 
「お誕生日は迎えられますか?」 
私は、そんなことしか聞けませんでした。  
 
 
 
そして、こーたに、 
「こーちゃん、また、病院にお泊りせなあかんねん。でも、今度はおうちにもいっぱい帰れるし、お母さんも病院にお泊りしてもええねんて」  
 
そう言いました。  
 
 
 
 
 
それからは、日々、変わっていく命の長さを感じるばかりでした。 
月単位が週単位、数日単位となっていきました。  
 
 
5歳のお誕生日を迎えるために、先生、看護師さん、心理士さん、保育士さんができる限り尽くしてくれました  
 
入院していると、周りは患者さんやご家族は病気を治すために治療しているのに・・・そんな事を思い、心から笑えない日もありました。  
 
中学生になった長男は、部活が終わって帰ってくると、こーたのそばにできる限りいてくれて、こーたもとてもうれしそうで・・・。 
 
そんな2人の姿をいつまでも見ていたい!  
 
こぼれそうになる想い。  
 
病気になってから、決っして、こどもたちの前では泣かないと決めたから、強く、強く、必死でした  
 
余命を宣告されてから4カ月。夜を越え、朝を迎えること、不安と願う日々でした。 
常に酸素吸入していないと、モニターの数値は70を切るようになり、痛みのコントロールも難しくなっていました。  
 
 
病院には輸血とステロイドを投与するための短い入院。 
自宅では訪問看護にお世話になりながら、いつでも病院に行けるように、できる限りおうちで楽しく過ごせるように、ずっとずっとそばにいれることが続いていくように・・・。  
 
 
 
 
 
旅立ちの日は突然でした。  
 
 
こーちゃんうそやろ?さっきまで、怒ってたやん‼なんで?  
 
こころの準備、覚悟、そんなものはできるわけない  
 
目の前の現実が信じらるはずもなく、ただ、淡々と時間が流れていきました。  
 
 
哀しみに向き合い、飲み込むことができない時、そばに「ちょう」がやってくることがあって、空を見上げるようになりました。  
 
そんな中で、私はリレー・フォー・ライフ芦屋と出逢いました。  
 
それでも、なにかを解放するととまらなくなるから、目の前のことに必死になり、向いている方向がわからなくなって落ちていくことも。  
 
いつの頃から、そんな時間も少しずつ減っていき、いろんなことが変わって、思い出す時間も少なくなりました。  
 
けれど、たくさんの愛しい時間は、なにかのキッカケでよみがえってきます。  
 
芦屋とはそれからかかわり続けているけれど、時々、いろいろなものが見えなくなったり、自分をコントロールしにくくなったりすることもあります。  
 
でも、ここでは、ここに集う人たちは、これに関わる人たちは、そんな自分を受け入れ、許してくれます。  
 
それに甘えつつも、ほんの少しずつでも前に進みたい。  
 
 
 
時がたってもずっと変わらない想い。  
 
きっとそれは永遠につづいていくんやとオモイマス。  
 
 
 
 
 
わたしが、ルミナリエに書きたいこと  
 
 
こーちゃん 
ずっといっしょなんやけど 
おかぁさんから 
こーちゃんが 
みえへんから 
ときどき 
きゅーってなるねん 
だから 
おそらをみあげてるときは 
こーちゃんが 
おかぁさんを 
みてるんやと 
おもっててもえーよねっ 
 
 
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