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「お父さんがリレー・フォー・ライフに参加していて良かったね」

2016年2月29日

アメリカで行われていたリレー・フォー・ライフの映像を見たことがきっかけで参加するようになったという、大分の平野さん。その時は数年後に奥さんががんのサバイバーになるとは想像もしませんでした。リレー・フォー・ライフにつながっていたおかげで、良い先生や良い助言に恵まれたといいます。

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>リレー・フォー・ライフ大分大会にて、写真中央に写っているのが平野さんの奥様。
当日は受付のお手伝いをされています。

私が「リレー・フォー・ライフ(以下R・F・L)」を知ったのは2007年。勤務先のボランティア会議で、アメリカのR・F・Lの様子を紹介する映像を視聴したことがきっかけでした。
その時の映像には、紫のTシャツ、リストバンドやバンダナを身に着けた多くの人が、笑顔でグランドを歩く姿が映っていました。
その中に、カメラに向かい「I’m a survivor(私は、がん患者です)。」と、笑顔で堂々と語りかけてくる人がいる。小さな子供までもが。しかも、自分の病状をしっかりと把握しており、「先生を信じて治療し、がんをやっつけるまで頑張るんだ。」と話している。
その周りには、家族や友人が居て「大丈夫。皆がついているよ。」と励ましながら、寄り添い歩いている。

1995年1月、父親をがんで亡くしましたが、その当時の事を思い起すと、笑顔で、明るく歩いている映像の中に、多くのがん患者・がん経験者(以下 サバイバー)がいることに、本当なのと目を疑いたくなるような光景でした。
更に、グラウンドに並べられたルミナリエに書かれたメッセージが、ロウソクの優しい光に浮かび、それを読みながら祈りを捧げ偲んでいる人たちの姿がありました。
そして、サバイバーの支援、がんを征圧するための新薬開発や医療技術の発展を目指し、寄付金が集められていました。その金額は、年間約400~500億ドルにも上ると。
多民族国家で個人主義のイメージが強いアメリカで、R・F・Lが無償ボランティアによる活動であることにも、驚いたことを思い出します。

そんな時、「大分にもリレー・フォー・ライフの開催を目指している女性がいますよ。」と紹介されたのが、坂下千瑞子(医師でサバイバー)さんで、偶然にも私の高校の後輩でもありました。当時、罹患してまだ2~3年くらいではなかったかと思います。
2008年、準備委員会に参加、そこには、サバイバーやケアギバーは勿論、友人や知人をはじめ様々な職業や年齢の方が約40名集まっていました。
そこで、坂下さんが訴えた事、それは「R・F・Lとは何か」、「なぜR・F・Lをやろうとしているのか」、そして「R・F・Lが目指しているもの」でした。何度も何度も、時には涙を浮かべながら、自分の体験談を交えて懸命に訴える姿に感動したと同時に、その思いが「すーっ」と心の中に入ってきました。
それは、参加していたサバイバーさんやケアギバーさんも同じで、話を聴きながら涙している姿がありました。
その時は、4年後に自分の妻がサバイバーになることなど、想像だにしませんでした。
そして、RFL大分実行委員会が立ち上がりました。

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大分大会にて。サバーバーズウォークの模様。
平野さんの奥様も歩きました。

更に、「がんサロン」も立ち上がりました。これは、がん患者さんやケアギバーさん、もちろんそれ以外の方も気軽に参加でき、そして元気になれる場所として、RFLJ大分実行委員会が活動の一環として運営しており、月1回ではありますが、8年間続けています。
決して専門的な難しい話や、特別な情報の提供をする訳ではありません。参加した皆さんが、楽しかった事、悲しかった事、辛かった事、家族にも言えないことなどを話せる場所となっています。
誰でもがんに罹る可能性はあります。皆さんのお話を聴かせて頂くだけで、とても勉強になりますし、皆さん明るい顔で帰っていかれます。

2010年、どういう訳か、坂下さんから大分の実行委員長を引き受けることになり、2年間務めました。
「自分にできるのだろうか。」と正直悩みましたが、「R・F・Lは、誰のために、何のために」を考えながら、サバイバーの皆さんはじめ実行委員の皆さんに支えて頂きながら、無事務めることができました。

そして、翌2012年、先ほどにも述べましたが、私の妻が乳がんを発症しました。
 「ねえ、ここにしこりみたいなのがあるんだけど。」、一瞬、「もしかして。」という思いが胸をよぎりましたが、「どちらにしても、早く病院へ行って診てもらったほうが良いんじゃない。」と、平静を装いながら言った事を鮮明に憶えています。
今思えば、「良くその時に言ってくれたなあぁ。」と思います。

幸いなことに、実行委員に乳腺外科勤務の女医さんがいたので、直ぐに相談し受診。
そこの院長先生も、顧問という形で当初よりRFLJ大分をご支援頂いており、安心してお任せすることができました。
結果を聞く日、私は仕事の都合で熊本へ。申し訳ないとは思いましたが、結局、妻一人で病院へ。
お昼ごろ携帯へ着信。相手は院長先生でした。「平野さん、奥さんもここにいらっしゃいますが、主人に上手く説明できそうにないのでとおっしゃるので、電話しました。あなただから単刀直入に言いますね。やはり、悪性でした。でも、まだ初期と言える段階で、私の経験値から、しっかり治療すれば、まず大丈夫ですよ。」、その言葉に、悪性という悪い結果でしたが、まだ最悪の状況ではないのかなとも思える自分がありました。

自宅に帰ると、暗い顔をした妻がいました。当然ですよね。
妻 ・・ 「ねえ、私、大丈夫よね。」
私 ・・ 「先生は何と言っていたかな。」
妻 ・・ 「しっかり治療すれば大丈夫って。」
私 ・・ 「じゃあ、大丈夫だよ。先生は専門医で、信頼できるから安心して任せよう。」
余計な不安を抱かないように、いつものような会話で話をしました。

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リレー・フォー・ライフ福岡大会の模様。

妻の悩みは、その治療法へと。「全摘」、「部分摘出」のどちらを選択するかでした。
最初に妻の母親と姉、次に私の母親と姉に、そして最後に当時大学3年生だった娘に病状と治療方針等を話し、みんなの意見を聞きました。

みんなの意見は、「将来のリスクをできるだけ小さくできる方法で・・・。」でした。
特に、娘は「お母さんには少しでも長く生きていて欲しい。お母さんは辛いと思うけど、私にとって胸が無くてもお母さんには違わないから。」と、涙ながらに訴えていた姿を思い出します。
そして、妻に対してぽつりとこう言いました。
「お父さんがR・F・Lをやっていて良かったね。」と。
そして、「だって、早く見つけられたし、良い先生にも巡り合えたじゃない。」とも。
思いもよらぬ娘の言葉に、「あの時、良く言ってくれたなあ。」と思った、その答えがありました。

悩みに悩んだ結果、「全摘出手術」を選択。本当に辛い決断だったと思います。
私は、「あなたの決断を尊重し、全力でサポートするから。」としか言えませんでした。
無事に手術は成功。そして、抗がん剤治療が始まりましたが、幸いにも、副作用はそんなに重くなく、治療による脱毛はありましたが、約1か月後から、本人の強い希望でパート勤務へ復帰。ありがたいことに、パート先も今まで通り温かく迎えてくれたようです。

その年のR・F・L・J大分大会には、妻も一緒に参加。同じ病気を患った経験を持ち、ウィッグなどでお世話になった山本実行委員長を紹介。初対面の2人が無言のまま抱き合って涙を流す様子や、サバイバーの皆さんが寄り添ってくれる様子に、そして妻の笑顔に、「これぞR・F・L、素晴らしいなあ。」と、改めて思えた瞬間でした。

私がR・F・Lというボランティア活動に携わって今年で9年目を迎えます。
 「がんを患った方が、がんと向き合う勇気と生きる希望の持てる社会の構築を目指し、将来、子供や孫が同じような苦しみや悲しみを味わうことのない世の中にする。」

がんと言う病気は、誰もが避けたいと思う病気ですが、誰もが罹患する可能性を持っている病気です。
今回、支えてくれたのもR・F・Lの仲間でしたし、サロンはじめR・F・Lの活動で得たものが、大きな支えとなってくれたのは確かです。
これから先も、R・F・L活動の趣旨を見失うことなく、関わっていきたいと思います。

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プロフィール
平野登志雄
大分県由布市生まれ。57歳、大分市在住。
1995年1月、父親をがんで亡くし、2007年、勤務先のボランティア会議で、アメリカのリレー・フォー・ライフの映像を視聴したのが出会い。
2008年、大分開催のリレー・フォー・ライフ準備委員会に参加、2010年、2011年のリレー・フォー・ライフ・ジャパン大分では実行委員長を務め、現在も実行委員会に参加している。
2012年、妻が乳がんを発症、手術を受けた。
同年からは(公財)日本対がん協会のブロックスタッフとして、九州地区リレー・フォー・ライフ実行委員会に対する指導、相談等を担当。
現在、今年で9年目となるリレー・フォー・ライフ活動を、妻や仲間と一緒に続けている。