土砂加持法要 参加しました(2023年4月26日)
「やはり、一週間の練習では無理だな」我が家の菩提寺は鵜飼町の常福寺。そこで四月二十二日土砂加持法要が行われた。私は総代なので実行委員。今回受付をするように指名された。受付とは祝儀を持ってこられた方に紅白パンを渡し、半紙に「一金○○円 氏名」を記す。
そこで、一週間前から筆ペンの練習帳を一生懸命練習した。だけど、開会直前には多数の方が一斉に来られる。とても練習のようにはいかない。ただ、自分が購入した筆ペンなので書きやすさはあるが、元の書体にすぐ戻る。半紙がいっぱいになると、壁に貼るので、勇気が必要。
とはいっても、知らない人から「皿海さんといえば、いつも走っておられる人でしょう」と声をかけられるとホッとする。
ところで「土砂加持法要」とは何だろう。総代になる前から私は仏教に興味があり、ひろさちやさんや瀬戸内寂聴さんの本をしばしば読んでいたが、このことについては知らないので、インターネットで調べる。
「真言宗・天台宗等『密教』にて行われる加持の一種。光明真言という真言があります。この真言によって土を加持し、その土を遺体やお墓、供養塔などに振りかけると、その功徳により、救われて極楽浄土に行けるとする考え方」というのがベストアンサーというのに載っていた。
今回の法要で土は見ないが、塔婆は注文しておけば頂くことができる。供養塔というのを塔婆と考えればいいのだろう。
さて、その後は数珠繰りとなった。般若心経を唱えながら大きな数珠を隣の人に渡す。数珠の数は百八つだそう。
数珠には名前が記してある。寄付をした人かな。「皿海さんの名前、ありますね」隣の人が言われた。「そうですね。両親の次に私の名前」息子のことを考えてくれていたのだな。
終了後、住職からお話があった。「数珠は初めに数と書きます。数えながら使うからです。また、念珠とも言いますね。一生懸命念ずるからですね。
そしてなぜ数珠繰をするのか。いいことがあっても自分だけに止めておかず、周りの人にも分けてあげることが大切。そうすればまた自分のところにもいいことが返ってくる。数珠繰にはそういう思いがあります」
そういうことか。いいことは自分だけのところに留め置かず、周りの人に伝え、いい思いをする人が増えることが大切。そうしていたら自分にももっといいことが多くなるというのは分かりやすい。
同時に悪いことも「自分だけで」というのはしんどくなるように思う。周りの人に話し、相談していると思いが軽くなる。
私は口下手で、話すことは得意ではない。だけどエッセイは趣味である。そして私のエッセイ、リレーフォーライフ広島のホームページ、難病者の会の機関紙「あせびだより」、山城巴を支持する人たちの冊子「窓」など発表の場はある。また、職場でも希望すれば回覧してもらえる。こういう恵まれた状況、生かして使いたい。
私のエッセイ、記し始めた時「忘れやすいけれど、大切な日常生活を記してみたい」という思いで始めた。難病の事、がんになったらがんの事等、反響を呼ぶこともあった。
また、がんに関するエッセイは、胃の全摘手術を行っていただいた岡大病院の看護師さんが喜んで読んでくださった。「患者の本音がよくわかる。これは新人看護師の教材になるから通院するたびに持参して』と言われたこともある。
リフレの清掃、わかばの利用者はそんなに減っていないが、体調が悪い人、高齢化した人等でちょっと人材不足の感あり。これも一人で悩んだり、「回復しなければ自分が責任をとらなくちゃあ」と思ったりするよりも、早く周りの人にも読んでいただき、共に考えてみたい。
神社総代、「役だからいつかやらなくちゃあ、しょうがないな」と思うより、積極的にかかわっていたら、学ぶことが多そうだな。