被爆八十年を前に(2025年8月5日)
もうすぐ被爆八十年がやってくる。テレビ、新聞等マスコミはしきりと被爆について取り上げている。それは今年が被爆八十年という記念すべき年ばかりではないように思う。
ロシアとウクライナの戦争、イスラエルによるガザ地区の攻撃、これらは核兵器を持った国による争いごとだ。そして、最終的には核攻撃を行ってもかまわないとにおわしている。もう一つの核兵器を持った国、北朝鮮もロシアとともにウクライナを攻撃している。
こうした状況を見て、「私も八月には原爆について学習したいな」と思っていた。七月の下旬だろうか、注文していた「平和のうぶこえ原爆の子として生きた八十年」著 早志百合子 毎日新聞出版 が届いた。著者の早志さんは以前RFL広島で講演してくださった方。それだけに親しみを感じる。
早志さんの幼少期は両親に連れられ、芝居や歌、踊りを観に行っていた。父は土木建築請負業を営み、裕福な家族だった。
八月六日八時十五分、爆心地から一・六キロメートル離れた自宅で被爆。九歳の時だった。広島の街は一瞬にして火の海に。自宅近くは危ないので、逃げて二又川の土手で野宿生活を送る。一瞬にして生活の状況は変わった。
野宿生活は現在の避難所とは違い、プライバシーの保護はなく、食料をはじめ、物品はすべて家族で工面しなくてはならない。大変な生活だが、元の家が焼け落ちていて、何もないため仕方がない。ただ、両親が生きていてくれたおかげでだんだん生活は安定してきて、体力もついてきた。
被ばくから五年後中学生の時、先生に「原爆に直接あった人は当時の出来事を直接書いてきてください」と宿題を出される。当時のことというと辛いことを思い出し、なかなか筆が進まないが、一週間くらいしてようやく提出。
これは広島大学教授永田新編「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」として岩波書店から刊行された。この本は、私は学生時代に読んだ記憶がある。もちろん当時は早志さんのことは何も知らない。ただ、「きちんと被爆体験を綴ってあるな。こんな悲惨な状況になるのなら再び原爆を使うことがあってはならない」と強く感じた。
二十年後、地元テレビ局から「『げんばくのこ』の執筆者でもう一度会いませんか」という企画があったが、集まった仲間の有志で「せっかく集まったのだから、この集まりを続けたい」という声が出て、「原爆の子きょう竹会」と名付けて年一回だが活動を続ける。早志さんはその会の責任者になる。
とはいっても「被爆者」というと差別・偏見があり、参加できない人もいる。早志さん自身も就職試験の際「あなたは八月六日にどこにいましたか」と聞かれた経験がある。また、「結婚する時が一番つらかった」と言われる人もいるという。
早志さんはその後乳がんの手術もされるが、「命さえあればなんとかなる」をモットーに好きな健康体操のインストラクターや被爆体験を語る等、前向きな生活をされておられる。
「おわりに」のページで記されている内容について記してみたい。
「本の朗読でもいいですし、歌が好きな人は歌、ダンスが得意な人は踊ってもいいでしょう。ピアノやバイオリンなど楽器を奏でてもいい。そういうのが苦手な人は絵や漫画を描いてみるのはどうでしょう。写真を撮る。文章を書く、体験を伝えていく方法はなんでもいいのです」
まさにそのとおりだと思う。だけど、今のガザに住む人たち、ウクライナに住む人たちにはちょっと難しいかもしれない。何とかならないか。せめて食糧補給くらいは。核兵器を持った国のトップにはぜひ「平和のうぶこえ」を読んでもらいたい。













